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今でも機長はあの夏のことを忘れることが出来ない。
1999年夏、アメリカではワイヤレスで
インターネットに接続可能なPalm
VIIがデビューし、
日本でもPHS内蔵WorkPadが告知されたが、
今から2年前の1997年夏、当時のPalm/WPJワールドは、
Pilotがこの世に誕生して2回目の夏を迎えたばかりだった。
だもんで、
モデムだって携帯電話が繋げるSnapConnectなんか
当然のようにまだ存在しなかった。
あるのは電話回線用の純正モデムだけ。
メールを受信することさえ、日本語の場合、
まだ文字コードの変換でジタバタしていた。
POPJなんて便利なものはまだなくて、
それでも、
ようやく日本語でのメールも不可能ではなくなったね、
なんて言っていたこの時期、
神様のJ-OSが初めて市販されたこの夏に、
そのニュースは突然われわれの前にやってきた。
1997年8月19日火曜日、
神様が「WorldFinder
0.1」というソフトを発表した。
しかもそれは
世界で初めてのPalm/WPJ用ウェブブラウザだという。
実際に試してみると、今では当たり前のことだが、
機長が当時使っていたPalmPilotProの液晶画面に
ウェブサイトのテキストが並んだ。
これは衝撃だった。
まだまだ国産ソフトの数がほとんどなかった時代に、
世界初のウェブブラウザが日本人の手によって開発された。
それはまるで
敗戦後の日本人の心を勇気づけた平泳ぎの前畑選手のように、
我々日本人Palm/WPJユーザに素晴らしい感動と興奮を与えてくれた。
その3日後、8月22日金曜日、
神様は「WorldFinder
0.2」をリリースした。
日本語コードの変換機能を追加などして、
これでほとんどの日本語サイトが読めるようになった。
(・・・と記憶する)
ところがその同じ日、
もうひとつのソフトがこの世に誕生した。
それが、「Palmscape
PR
2」というソフトだった。
ほんの三日ほどの遅れだが、
このソフトもまたPalm/WPJ用のウェブブラウザだった。
その洒落た名前と機長の勝手な思い込みから最初、
機長はずっとこのソフトを外人さんの作品だと思っていた。
そこで思った。
きっとその外人さん、
アジアの作家に先を越されて無茶苦茶悔しがっているんだろうな。
それはかつて、南極の地で絶望的に悔しがった
アムンゼン隊長のように。
ところが、
やがてその「Palmscape」というソフトもまた、
日本人のOku
Kazuhoさんという人の作品だと知った。
つまり、国内でまったく別々の環境にいた2人の男が
ほぼ同時(だってわずか3日だよ!)に
世界初のPalm/WPJ用ブラウザを作ったのだ。
このドラマは機長を十分なほど酔わせてくれた。
子供の頃、伝記の本で読んだ、
同時に電話を発明した2人の男
(そのうちの一人がグラハム・ベルだった)の話なんかを思い出していた。
なんとも言えないライバル心と友情が、
2人の間には芽生えていたはずだ。
それもある日、突然・・・
なんて勝手な想像をしたりして一人ニヤニヤしていた当時の機長だ。
で、実際、機長の記憶では世界のPalm/WPJ系ウェブサイトで、
このニュースは大きく扱われていた。
さしずめ、先日のPalm
V分解に世界で初めて成功した
柏木さんのニュースのように。
で、それから数週間以内には、
海外でもPalm/WPJ用ブラウザがいくつかデビューして、
およそ1ヶ月後には世界初の画像表示ブラウザ
「Top
Gun
Wingman
」がデビューした。
(現在の「ProxiWeb」の前の名前だ。)
そんな1997年夏以来、
いまだに「Palmscape」は世界のPalm/WPJ用ブラウザの世界で
トップクラスの位置をキープしている(・・・はずだ)。
少なくとも日本では、
おそらくトップシェアを守っているはず。
なお、97年8月に始まった、
神様とOkuさんのブラウザ戦争はその後、
デスクトップコンピュータにおける
Netscape
NavigatorとIntenet
Explorerの戦いのように、
熾烈な戦いを繰り広げるかと誰もが思っていたのだが、
事実は、予想もしなかった意外な展開を迎えることになる。
わずか3日とは言え世界初の冠を獲得した
「WorldFinder」は、その3日後にリリースされた
「Ver.0.2」を最後にバージョンアップを辞めてしまった。
まるで、その日にちょうどリリースされた
Okuさんの「Palmscape」の登場を待っていたかのように。
そしてそれは、まさにその通りの理由だった。
「誰も手を付けていない道を開くためになら頑張ります。
でも、誰かがその道に手をつけたらそれを潔く後進に譲ります。
新しい手つかずの道を探すために」
・・・という、神様のポリシーからすると、
Okuさんはまさにうってつけの後進だった。
しかも、
わずか3日遅れという時間差でもわかる通り、
神様並みに優秀な開発能力をもった後進だ。
神様は安心して、
Palm/WPJ界のウェブブラウザ開発という切符を
このOkuさんに譲った。
そう見えた。
(実際、神様本人からそんな話を聞いたこともある
ずいぶん後のことだが・・・)
以来、Okuさんによる世界最先端を突っ走る
ブラウザ開発の歴史が始まった。
ほぼ一ヶ月後の97年9月30日には
リンク処理をサポートした
「Palmscape
PR4.1」を、
そして同年11月23日にはFORMへの対応や
MemoPadからURLを読み取る機能をつけた
「Palmscape
PR5.0a0」を、
同年12月8日にはドキュメントをMemoPadに保存できる
「Palmscape
PR
5.0a1」を、
同年12月22日には
バグ報告記録ソフトを添付した
「Palmscape
PR
5.0a2」を、
暮れも押し迫った同29日には
「Palmscape」日本語バージョンを
リリースした。
この勢いは翌98年にも続く。
98年2月5日には
数々のインターフェース改良の集大成とも言うべき
「Palmscape
PR5.0a4
」をリリースした。
現在でもこれを使っているユーザは多い。
機長もコイツだ。
そして同年2月13日は
フレームのサポートと中国語処理機能をもった
「Palmscape
PR
5.0a5
」をリリース。
ところが、この待望のバージョンは数日後に
深刻なバグを持っていることが判明して、
トラブルを抱えた場合は
「Palmscape
PR5.0a4
」に戻すように!
・・・という注意がPalm/WPJコミュニティで流れた。
またこの頃、「Palmscape」が市販されるでは?
なんて噂もPalm/WPJコミュニティ内部に流れた。
人々はこの夢の速度で進化する
国産ウェブブラウザに夢を託した。
このまま成長を続ければ、
おそらくコイツはPalmの世界の標準ブラウザになるだろう。
機長はそんな予感すら感じていた。
ところが、それ以降、Okuさんはプツリと姿を消した。
正確に言うと、
「Palmscape
PR5.0a4
」と
「Palmscape
PR
5.0a5
」のリリースを最後に、
同ソフトのバージョンアップはプツリと止ってしまった。
さらには数ヶ月後、
当時、誰もがしばしばマイナーバージョンアップのたびに訪れていた
Okuさんのサイト「Palmscape
Homepage」までもが
ネット上から姿を消した。
・
・
・
誰もがOkuさんの消息を知りたいのにわからない。
そんな日々が続いた。
一時期は、ネット上から「Palmscape
PR
5.0」が絶滅する
というピンチにさえ陥った。
結局は、「PalmCentral」というPalmwareアーカイブに
コピーが残っていることが判明して、
絶滅の危機だけは免れた。
だが、「Palmscape」の未来は、
Okuさんのサイトとともに我々の前から完全にその姿を消した。
以来、機長はなんとしても、
そんなOkuさんの消息を知りたくて、
パーム航空上で呼びかけたりもしてきた。
■時刻表981009-03「Okuさんのサイトが繋がらない!」 ■時刻表981104-25「発見!」 ■時刻表990116-02「奥さん、求む!」 |
神様から「機長さん、奥さんだよ!奥さんが来てるよ!」と興奮気味に呼ばれた時は、「この人、何を言ってるんだろう?」と思ったら、 そう、Palmscpae作者のOKU Kazuhoさんだった。 こんな言い方をすると、ちょっと語弊があるかもしれないが、とっても可愛らしい青年だったのは意外だった。 現在は就職なさって京都方面にいらっしゃるそうで、「是非、ホームページもつくって下さいよ」とお願いしたら「近いうちにその予定です」という返事をもらえた。楽しみ! @According to 定期便PAL122「Palm Computing Seminor in Tokyo Big Sight」 @ |
奥です。 ごぶさたしておりました。 Palmscape のサイトを再びたち上げましたので、ご報告申し上げます。 http://palmscape.ilinx.co.jp/ です。 @ |
PAL125 に「(電話を発明したうちの)ひとりがトーマス・ベルだった」というくだりがありますが, この Bell は Thomas ではなくて、Alexander Graham Bell(グラハム・ベル)だと思います. Thomas のほうが、もう一人のThomas Alva Edison ですね. @ |
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