PAL125便
あの夏・・・



UPDATED 1999.06.03





 

奥さんが帰ってきた!






妙なタイトルだが、
Palm/WPJの世界で「奥さん」と言ったら
誰かのワイフではなくて、
Palm/WPJ用ブラウザ「Palmscape」の作者・
Oku Kazuhoさんのことだ。

さて、いきなりここから話はガラッと変わる。


今でも機長はあの夏のことを忘れることが出来ない。

1999年夏、アメリカではワイヤレスで
インターネットに接続可能なPalm VIIがデビューし、
日本でもPHS内蔵WorkPadが告知されたが、
今から2年前の1997年夏、当時のPalm/WPJワールドは、
Pilotがこの世に誕生して2回目の夏を迎えたばかりだった。

だもんで、
モデムだって携帯電話が繋げるSnapConnectなんか
当然のようにまだ存在しなかった。
あるのは電話回線用の純正モデムだけ。
メールを受信することさえ、日本語の場合、
まだ文字コードの変換でジタバタしていた。
POPJなんて便利なものはまだなくて、
それでも、
ようやく日本語でのメールも不可能ではなくなったね、
なんて言っていたこの時期、
神様のJ-OSが初めて市販されたこの夏に、
そのニュースは突然われわれの前にやってきた。

1997年8月19日火曜日、
神様が
「WorldFinder 0.1」というソフトを発表した。

しかもそれは
世界で初めてのPalm/WPJ用ウェブブラウザだという。

実際に試してみると、今では当たり前のことだが、
機長が当時使っていたPalmPilotProの液晶画面に
ウェブサイトのテキストが並んだ。

これは衝撃だった。

まだまだ国産ソフトの数がほとんどなかった時代に、
世界初のウェブブラウザが日本人の手によって開発された。
それはまるで
敗戦後の日本人の心を勇気づけた平泳ぎの前畑選手のように、
我々日本人Palm/WPJユーザに素晴らしい感動と興奮を与えてくれた。

その3日後、8月22日金曜日、
神様は
「WorldFinder 0.2」をリリースした。

日本語コードの変換機能を追加などして、
これでほとんどの日本語サイトが読めるようになった。
(・・・と記憶する)

ところがその同じ日、
もうひとつのソフトがこの世に誕生した。

それが、「Palmscape PR 2」というソフトだった。

ほんの三日ほどの遅れだが、
このソフトもまたPalm/WPJ用のウェブブラウザだった。
その洒落た名前と機長の勝手な思い込みから最初、
機長はずっとこのソフトを外人さんの作品だと思っていた。
そこで思った。
きっとその外人さん、
アジアの作家に先を越されて無茶苦茶悔しがっているんだろうな。
それはかつて、南極の地で絶望的に悔しがった
アムンゼン隊長のように。

ところが、
やがてその「Palmscape」というソフトもまた、
日本人のOku Kazuhoさんという人の作品だと知った。
つまり、国内でまったく別々の環境にいた2人の男が
ほぼ同時(だってわずか3日だよ!)
世界初のPalm/WPJ用ブラウザを作ったのだ。
このドラマは機長を十分なほど酔わせてくれた。

子供の頃、伝記の本で読んだ、
同時に電話を発明した2人の男
(そのうちの一人がグラハム・ベルだった)
の話なんかを思い出していた。

なんとも言えないライバル心と友情が、
2人の間には芽生えていたはずだ。
それもある日、突然・・・
なんて勝手な想像をしたりして一人ニヤニヤしていた当時の機長だ。

で、実際、機長の記憶では世界のPalm/WPJ系ウェブサイトで、
このニュースは大きく扱われていた。
さしずめ、先日のPalm V分解に世界で初めて成功した
柏木さんのニュースのように。

で、それから数週間以内には、
海外でもPalm/WPJ用ブラウザがいくつかデビューして、
およそ1ヶ月後には世界初の画像表示ブラウザ
「Top Gun Wingman 」
がデビューした。
(現在の「ProxiWeb」の前の名前だ。)

そんな1997年夏以来、
いまだに「Palmscape」は世界のPalm/WPJ用ブラウザの世界で
トップクラスの位置をキープしている(・・・はずだ)
少なくとも日本では、
おそらくトップシェアを守っているはず。

なお、97年8月に始まった、
神様とOkuさんのブラウザ戦争はその後、
デスクトップコンピュータにおける
Netscape NavigatorIntenet Explorerの戦いのように、
熾烈な戦いを繰り広げるかと誰もが思っていたのだが、
事実は、予想もしなかった意外な展開を迎えることになる。

わずか3日とは言え世界初の冠を獲得した
「WorldFinder」
は、その3日後にリリースされた
「Ver.0.2」を最後にバージョンアップを辞めてしまった
まるで、その日にちょうどリリースされた
Okuさんの「Palmscape」の登場を待っていたかのように。

そしてそれは、まさにその通りの理由だった。

「誰も手を付けていない道を開くためになら頑張ります。
でも、誰かがその道に手をつけたらそれを潔く後進に譲ります。
新しい手つかずの道を探すために」

・・・という、神様のポリシーからすると、
Okuさんはまさにうってつけの後進だった。

しかも、
わずか3日遅れという時間差でもわかる通り、
神様並みに優秀な開発能力をもった後進だ。
神様は安心して、
Palm/WPJ界のウェブブラウザ開発という切符を
このOkuさんに譲った。
そう見えた。
(実際、神様本人からそんな話を聞いたこともある
ずいぶん後のことだが・・・)

以来、Okuさんによる世界最先端を突っ走る
ブラウザ開発の歴史が始まった。

ほぼ一ヶ月後の97年9月30日には
リンク処理をサポートした
「Palmscape PR4.1」
を、
そして同年11月23日にはFORMへの対応や
MemoPadからURLを読み取る機能をつけた
「Palmscape PR5.0a0」
を、
同年12月8日にはドキュメントをMemoPadに保存できる
「Palmscape PR 5.0a1」を、
同年12月22日には
バグ報告記録ソフトを添付した
「Palmscape PR 5.0a2」を、
暮れも押し迫った同29日には
「Palmscape」日本語バージョン
リリースした。

この勢いは翌98年にも続く。

98年2月5日には
数々のインターフェース改良の集大成とも言うべき
「Palmscape PR5.0a4 」
をリリースした。
現在でもこれを使っているユーザは多い。
機長もコイツだ。

そして同年2月13日は
フレームのサポートと中国語処理機能をもった
「Palmscape PR 5.0a5 」をリリース。
ところが、この待望のバージョンは数日後に
深刻なバグを持っていることが判明して、
トラブルを抱えた場合は
「Palmscape PR5.0a4 」に戻すように!

・・・という注意がPalm/WPJコミュニティで流れた。
またこの頃、「Palmscape」が市販されるでは?
なんて噂もPalm/WPJコミュニティ内部に流れた。

人々はこの夢の速度で進化する
国産ウェブブラウザに夢を託した。
このまま成長を続ければ、
おそらくコイツはPalmの世界の標準ブラウザになるだろう。
機長はそんな予感すら感じていた。

ところが、それ以降、Okuさんはプツリと姿を消した。

正確に言うと、
「Palmscape PR5.0a4 」
「Palmscape PR 5.0a5 」
のリリースを最後に、
同ソフトのバージョンアップはプツリと止ってしまった。

さらには数ヶ月後、
当時、誰もがしばしばマイナーバージョンアップのたびに訪れていた
Okuさんのサイト「Palmscape Homepage」までもが
ネット上から姿を消した。





誰もがOkuさんの消息を知りたいのにわからない。
そんな日々が続いた。
一時期は、ネット上から「Palmscape PR 5.0」が絶滅する
というピンチにさえ陥った。
結局は、「PalmCentral」というPalmwareアーカイブに
コピーが残っていることが判明して、
絶滅の危機だけは免れた。
だが、「Palmscape」の未来は、
Okuさんのサイトとともに我々の前から完全にその姿を消した。

以来、機長はなんとしても、
そんなOkuさんの消息を知りたくて、
パーム航空上で呼びかけたりもしてきた。

■時刻表981009-03「Okuさんのサイトが繋がらない!」
■時刻表981104-25
「発見!」
■時刻表990116-02
「奥さん、求む!」


次にOkuさんの名前を聞いたのは、
今月に入ってPalmManagertetsuさん
「Palmscape 日本語ローカライザ (5.0a4用)」をリリースした時だった。

どうやって作者の許可をとったんだろうと機長は謎だったが、
製作者のtetsuさんによると、
Pilot-tech MLでOkuさんの名前を発見、
連絡をとることが出来たというのだ。
これで少なくともOkuさんが何かのご不幸に遭って・・・
という最悪の予想だけはなんとか外れてくれた。

■時刻表990511「間違い探し」

そして次にOkuさんの名前を聞くことになるのは、
先日のPalm Computing Platformセミナーでの会場だった。


神様から「機長さん、奥さんだよ!奥さんが来てるよ!」と興奮気味に呼ばれた時は、「この人、何を言ってるんだろう?」と思ったら、
そう、Palmscpae作者のOKU Kazuhoさんだった。
こんな言い方をすると、ちょっと語弊があるかもしれないが、とっても可愛らしい青年だったのは意外だった。
現在は就職なさって京都方面にいらっしゃるそうで、「是非、ホームページもつくって下さいよ」とお願いしたら「近いうちにその予定です」という返事をもらえた。楽しみ!

@According to 定期便PAL122「Palm Computing Seminor in Tokyo Big Sight」


こうして機長はOkuさんと初めて会えた。

そしてとうとう昨日、
Okuさんのサイト

「Palmscape Homepage」

復活した!


PalmPilot-MLにこんな投稿が届いた。


奥です。

ごぶさたしておりました。

Palmscape のサイトを再びたち上げましたので、ご報告申し上げます。

http://palmscape.ilinx.co.jp/ です。

@According to [pilot-ml 11445] Palmscape is back (^^;

実にあっさりした投稿だが、
かつてのPalmscapeサイトの雰囲気を知る者として、
あ!間違いなく、あのOkuさんだと確信できる投稿だ。

そして実際、彼の新しいサイトを見ると・・・。

これであとは、
Okuさん
がPalmware作家としても
復活してくれたら最高なんだが、
先日お会いした時の感じだと、お仕事がお忙しそうだったので、
こればっかりはどうなることやら?・・・

でも、PCPセミナーに姿を見せたり、
サイトを復活させたってことは
少しはその可能性があるのでは?
・・・とちょっぴり期待してしまう機長だ。

今日は、久しぶりに昔話で終わってしまった。






じゃ。


1999年5月29日



UPDATED 1999.06.03





Palmとは関係ないけど・・・





上の文章のこのあたりの文章について
その後、
慶応空港の崔管制官より以下のような報告を貰った。


PAL125 に(電話を発明したうちの)ひとりがトーマス・ベルだった」というくだりがありますが, この Bell は Thomas ではなくて、Alexander Graham Bell(グラハム・ベル)だと思います.

Thomas のほうが、もう一人のThomas Alva Edison ですね.


あちゃ〜!

そうだ!

ベルは、トーマスじゃない!グラハムだ!
これは機長の記憶ミスだった。
というわけで、さっそく上の文章でも
「グラハム・ベル」に直させてもらった。

そして、偶然だが、
「トーマス」
もう一人の発明家であるエディソンの名前だった。

さらには、たまたま調べていてわかったのだが、
グラハム・ベルが電話で最初に喋った言葉として
伝えられている以下の言葉

「Mr. Watson, come here, I want you. 」
(ワトソン君、来てくれ、君に用事がある)

・・・に登場するWatson君(ベルの助手らしい)
ファーストネームもThomasだったらしい。

ベルのファーストネームは「グラハム」だったが、
偶然にも電話発明の影に
2人の「トーマス」がいたということがわかった。

・・・

これだけならば、話はすぐに終わる。

ここで機長はもうひとつの発見、というか疑問を持った。

あれれ!!

話は、修正したばかりの文章に戻る。
これを読んで欲しい。


子供の頃、伝記の本で読んだ、
同時に電話を発明した2人の男
(そのうちの一人がグラハム・ベルだった)の話
なんかを思い出していた。



機長がこの文章を書いた時、
「同時に電話を発明した2人の男」で
「グラハム・ベル」ではない男として想定していたのは、
実は「トーマス・アルバ・エディソン」ではなかったのだ!

でも、確かに、発明王エディソンと言えば
「電話」の発明家でもあるとは
子供の頃、彼の伝記で読んだことがある。

実際、インターネットでいくつかのサイトを調べても
彼の発明リストに「電話」が並んでいる。

一方、ベルとエディソンが争ったなんて
話は見つからなかった。

あれれれ!!!

ここまで来て機長は、
ひとつ大事なことを思い出した。
機長が上の文章で「子供の頃、伝記の本で読んだ」と
書いているが、この記憶は間違いだ!

そうだ、「同時に電話を発明した2人の男」の話を読んだのは
子供の頃に読んだ伝記の本ではなかった。

マンガ「栄光なき天才たち」(集英社)だ!

かつて「ヤングジャンプ」だったかで連載されていた
この漫画が機長は大好きで、毎回読んでいたし、
その単行本もすべて揃えていた。

科学や文化、スポーツなどの各分野で
素晴らしい仕事をしながらも、
何らかの理由でそれが認められなかったり、
あまりにも不幸な結末を迎えたりしてしまう天才たち。
そんな彼らの人生を扱った「栄光なき天才たち」は
非常に素晴らしいリサーチも含めて、
機長の大のお気に入りだった。

「同時に電話を発明した2人の男」の話を読んだのは
この漫画だったはずだ!

だもんで、さっそく本棚を探してみた。
そしたら見つかった!

しかも、なんとこの
「同時に電話を発明した2人の男」の話は、
この「栄光なき天才たち」の記念すべき第一話だった。

単行本第一巻は
第一話「エリンシャ・グレイ」で始まる。

ここに出ていた解説文を読んで、
いろんなことを思い出した。

そのまま転載する訳にはいかないので、
概要だけ書く。

19世紀後半、
フランス人のボザールが電話の原理が考え出し、
その後、ドイツ人のライスが電話機を試作したが
実用性にはまだ届かなかった。
そして、
1976年2月14日、
これが運命の日となった。

この日、2人のアメリカ人が
まったく同日に「電話」を発明し、
その特許出願を行ったのだ。

その一人が、いまでも電話の発明者として
語り伝えられている
アレクサンドル・グラハム・ベル(1843〜1922)であり、
もう一人がエリンシャ・グレイ(1835〜1901)だった。

その漫画によると、出願された「内容」も同じ、
「特許の請求範囲」もまったく同じだったという。
まったく別々に研究されてきたテーマが
まったく同じ日に花開いてしまったのだ。
運命のイタズラとしか言いようがない。
ただし、この2つの出願特許には
たったひとつだけ違いがあった。

それは、ベルの出願の方が
グレイの出願よりも2時間早く提出されていたのだ。

さらに翌年には、
とんでもない大物が、
この、熾烈な電話発明競争の舞台に割り込んでくる。
炭素送話機」の発明者であり、
発明王の名で知られる
トーマス・アルバ・エディソンだった。

この結果・・・

ベル、グレイ、エディソンが
それぞれ提出した特許は複雑な企業間の利害も重なって
もつれにもつれ、
複雑な権利闘争へと発展して、
それから十年の歳月がたった後、
出願の日にすでに2時間差の勝利を得ていた
ベルが最終的な勝利を勝ち取った。
(詳しくは「栄光なき天才たち」1巻を参照のこと!)

その結果、グラハム・ベルの名前は残り、
その他の数々の発明と
世界で最初に電話機に「Hello」と話しかけたアドリブによって
エディソンの名前も残ったが、
ベルと同日に世界で初めて電話を発明した男、
グレイの名前は歴史から消えた。

まさに彼は「栄光なき天才」となった。



これが、機長の書きたかった事の顛末だ。

こういう話が機長はとても好きだ。


う〜ん、
全然Palm/WPJには関係ない話になってしまったが、
ま、たまにはいいだろう。

だって、
今年はPalmに初めて電話機が内蔵された
記念すべき年な訳だし。
だからどうした?と言われても困るのだが、
少なくともこれだけは言える。

漫画「栄光なき天才たち」
(作・伊藤智義、画・森田信吾)
めちゃくちゃ面白いぞ!





じゃ。


1999年6月3日

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