PAL150便
ホットドッグ計画(仮)
完結編
もうひとつの歴史










パーム航空のもうひとつの歴史





さて、ここからは、
これまでずっとパーム航空を読んできてくれた
すべての読者の皆さんへの私信だ。

だから、今日初めて「パーム航空」を読む!
って人は読まなくていい。
というか、読まないほうがいい。
そんな人は、ある程度「パーム航空」を
読んでから、以下の文章を読もう。

さて、まず本題だ。

実は、今日限りで
パーム航空は
2年余の歴史を閉じる。


ま、正確には、
今日限りで「無期限の休航」に入る。

機長としては、
この発表が「いきなり!」にならないよう、
これまで何度かこの決断を暗示するメッセージを
さりげなくふってきたつもりだったりもするのだが、
「断言する」という意味では
やっぱり「いきなり!」だろう。

なんでこんな大事なことをいきなり話すのか?

これには訳がある。



突然だが、
話はいきなりさかのぼる。


1996年。

ちょうどPalmの前身、PILOTが生まれた頃。
「パーム航空」はまだこの世に誕生していない時代の話だ。

そしてまたまた突然だが、
いきなり「K」という男が登場する。

ここからはしばらく、その
「K」という男について書く。

なんで?

ま、疑問もあるだろうが、
その疑問は脇に置いておいて欲しい。
あとですべて説明する。

さて、1996年の「K」の話だ。

「K」はその頃、
バリバリと仕事をしていた。
もう、これでもかってほどに仕事をしていた。
ある種のワーカホリックだったのかもしれない。

WorP@holicではないヨ。
ま、その語源には違いないが・・・。

そんなことはともかく「K」の話だ。

その頃の「K」は、ある意味、
仕事の上でピークを迎えようとしていた。

ピーク。

もちろん、おすぎの姉妹じゃない。
ここで言う「ピーク」とは、
「頂点」とか、「絶頂期」と訳されるアレだ。

そして、
「絶頂期の人間ほど無防備なものはない」
・・・という
いにしえの人の名言(実は、今作ったが・・・)は正しかった。

「K」はその絶頂期の真っ只中に、
その「絶頂期ゆえの無防備さ」のために、
ある日、
人生の頂点から、
奈落の底に落ちた。

うん?

話が急すぎやしないか?

ま、そんなツッコミはともかく、だ。

つまり「K」はある日、
人生最大のピークから人生最悪の状態まで
真っ逆さまに落ちた。

もともと「K」は
ピンチと呼ばれるものには比較的強い性格だ
と、自分では思っていた。
もちろん、生まれながらにピンチに強い人間なんかいない。
彼の場合も、
それまでの人生経験が彼をそうしてきた、
と、少なくとも彼は思っていた。
信じていた。

実際彼は、
それまでの人生で、
何度も何度もかなり強烈なピンチを経験してきた。
ピンチは毎度とても大きなものではあったが、
それらを経験しながら、あるいは乗り越えながら、
やがて彼はそれをバネに変えるという
「生きるための智恵」を覚えた。
その結果、獲得したのがその頃の「絶頂期」だった。
だから自分は逆境には強い。
そう、彼は自分のことを思っていた。
くどいようだが、そう信じていた。

ま、結果から先に言うと、
それは「K」の大いなる勘違いだった。

さて、まず彼の最初の誤算は、
ピンチがいつも単体でやってくるとは限らない、
ということだった。
2〜3個でやってくる、とも限らない。
実際、2〜3個のピンチなら彼にも経験があった。
ところが、この時のピンチは、ある日彼のもとに
「てんこもり状態」で押し寄せてきた。
これは彼にとって大きな誤算だった。

まるで真夏の夜の夢の球宴のような
超豪華オールスターキャストの「ピンチ」が
シャワーのように
彼に降り注ぎ、
「絶頂期ゆえの無防備さ」に漬りきっていた彼は
それらを
まともに受けることになった。

それこそ、ありとあらゆるピンチが彼を襲った。

まず最初は、
「カラダ」の異変から始まった。
それでも「K」は
そんなピンチは彼のキャリアから考えたら
簡単に乗り越えられるものだ、
と思っていた。
いや、思い込んでいた。

そして実際、彼の「過信」は
面かぶりクロールのような向こう見ずな手段で
この最初のピンチをしのごうとした。
面かぶりクロールで100m泳ぐことが大変なように、
これは、どう考えても長続きする方法とは思えなかった。
だが、当時の彼はそんなことに
気づく暇もなかった。
だから、「大丈夫!なんとかなる」と自分に言い聞かせながら、
ナイアガラの滝に向う川の上を
面かぶりクロールで
ひたすら泳いでいた。

人間にとって「ピーク」とはつまり、
ナイアガラの滝の頂上で
泳いでいることを言うのかもしれない。

が、当時の「K」は
そんなことには気づいてもいなかった。

彼が必死に泳ぐ先で、
ナイアガラの滝音がだんだんと迫っていたが、
当時の彼の耳に、それは届いていなかった。

ザ〜〜〜〜〜〜。



それから
約1年以上の日々が過ぎた。

1997年の秋。


すでに第二世代のPILOTと言えた
「PalmPilot」は国内でも市販されていた。
ほぼ同時に「J-OSパッケージ版」の市販も始まっていた。

そんな頃。

彼はまだ絶頂期のレールの上を
フラフラになりながらも
無我夢中で走っていた。
だが、
そろそろ自分の中で誤魔化してきたさまざまな矛盾が
「K」の意志に反して、暴走を始めていることに
彼もうっすらと気づきかけていた。

そんなある日、

彼の心を支えていた支え棒のようなものが
ポキッと折れた。

面かぶりクロールで泳いでいた「K」の前に、
突如ナイアガラの滝の頂点が見えてきた。
同時に聞こえてきた滝音は
凄まじいうなりをあげ、
もはや「K」から冷静な判断力を奪っていた。

恐れていた悲劇の連鎖は、
こうして突然やって来た。

いや、正確にはもっと複雑な因果関係の中で
さまざまな矛盾が小さな核融合をしていたとも言えるのだが、
無邪気な無防備さの中にいた「K」には
それが見えなかった。
そして核融合の値がかなりの高数値を弾き出して初めて、
彼はその異常事態に気づいた。

長い間軽く扱ってきた「カラダ」の異常が
いきなり「K」の体の各所で火を噴いた。

中でも、
もっとも顕著に現れた
「カラダ」の異常は、
「K」のアイデンティティ
までをも崩壊させるほどのもの

だった。

その瞬間に、
それまで誤魔化し続けてきた
「カラダ」以外のさまざまな矛盾も
連鎖反応を起こすように爆発した
こうして、
すべてのピンチが彼の前に露呈した。

一番大きかったのは、
「カラダ」と「ココロ」の相乗効果による同時崩壊だった。
「カラダ」が崩壊を始めた瞬間に、
それまでこらえていた「ココロ」の矛盾までもが
チャンス!とばかりに暴走を始めた。

すべてが手をつけられないほどのスピードで
「K」の人格に襲いかかった。

「ココロ」の中の
「夢」とか「希望」とか「安定」とか言った
肯定的な要素がバタバタと倒れて、
そうした累々たる死体の隙間から
ドロドロとしたマグマが見えてきた。

やばい!

慌てた彼はまず、
自分の「ココロ」を救ってくれるかもしれない
すべてのものを思い出そうとした。

だが、
それまでの数年間で彼は
「絶頂期の無邪気さ」ゆえに
それらをすべて、
傷ついたり病んだりした彼の「ココロ」を救ってくれたかもしれない
すべてのものを手放していた。
ようやく気がづいた時には、
「K」の手のひらには何ひとつ残っていなかった。
自分ではそんなつもりはなかったのだが、
とっくの昔に彼は
それらすべてのものを手放していた。

それは例えば、

恋人、

友達、

家族、





これら、
彼の今回のピンチを助けてくれたり、
和らげてくれたかもしれない
大切なものたちを、
あるものは意図的に、あるものは無意識的に
「K」はすでに放棄していた。
というより失っていた。
そんな彼にとって、
今回の「不幸の満漢全席」はあまりにも大きすぎた。
それはまるでなんの医学的な準備もなしに
インドの泥川の水を飲むようなものだ。
コンドームなしに
やたらめったらセックスをしまくるようなものだ。
無防備ゆえにそれらは致命傷となった。

そして、
ようやくこれら事実に気づいた時には
すでにすべてが手遅れだった。

気がつくと彼は
それまでの人生で獲得した(と思い込んでいた)
すべての「自信」とか「勇気」とかまで
同時に喪失していた。

すっからかん。

すがりつく藁さえも見つからない状況で、
彼はナイアガラの滝を落下していった。

こうして崩れ始めた彼の「ココロ」は
彼の「カラダ」をさらに破壊し、
破壊された彼の「カラダ」は、
まるで復讐でもするように、
彼の「ココロ」をさらに蝕んだ。

悪循環だった。

ちなみに、悪循環に陥った人間はいつも思う。

この悪い循環を断ち切りさえすれば、自分は救われる!と。

ところが、そう簡単には断ち切れないのが
悪循環の悪循環たるゆえんだった。

自らが掘った深い縦穴式の墓穴の中を
何の救いもないままに
真っ逆さまに落下している自分に気づいて、
この頃の「K」は愕然としていた。

もはや取り返しのつかない状態にきて初めて、
彼は彼の人生最大の失敗の意味に気づいた。
だが、もう遅かった。
あまりにも彼は人生をナメていた。

仕事場にも行けなくなった彼は、
ベッドの上で、
ただただ震えながら天井を見つめていた。

これほど空しい天井は見たことがなかった。
なんの救いも幻想も見えてこない天井を
彼はただ、じっと見つめるしかなかった。



こうして「K」は
生まれて初めて
「ココロ」と「カラダ」が
機能停止しかける瞬間を味わった。

この最悪の状態を味わってしまった彼は、
いっそのこと、そんな自分の人生の連続性に
とどめを差してしまいたいとさえ思った。

呪いたいほどの悔しさが
そんな彼の気持ちを後ろ押ししていた。

でも、彼にはそこまでやってしまうほどの、
「勇気」も実は残ってはいなかった。

そんなものが残っていたら
別の解決方法も見つかっていたかもしれない。
いわゆる「死ぬ気で何とかする」という奴だ。

だが、当時の彼には、
「死ぬ」ほどの勇気もなく、
かと言って、
現在体験している不幸から逃れる術が
何も見つからないまま、
「どこにも進めない」、
「どこにも戻れない」、
というやるせない絶望とともに
日々を送るしか方法が見つからなかった。

「K」と「絶望」との
望まざる同棲生活はこうして始まった。

それまで、どちらかというと
人の間に飛び込んでいくことが多かった「K」が
ここに来て初めて、
人間との接触を恐れた。
正直怖かったのだ。
「すっからかん」になってしまった自分を
自分で認めることが出来ず、
それゆえにこそ、
それを他人に見透かされてしまうことも怖かった。
部屋の外に出ることにさえ、
彼は脅えていた。
ベッドの上で天井を見つめながら震えていることが、
一番辛くて、一番安心な
彼の生きるための姿勢となった。

だが、部屋の中ばかりに閉じこもっている訳にもいかない。

仕事だって毎日ある。
40時間ほどの「消息不明」という無断の職場放棄の後に
彼は再び職場にも出かけた。

だが、
彼はどこかで自分を「運命の被害者」だと
決めつけているようなところがあった。
そのために、
他人からの言葉に傷つきやすいだけでなく、
それを防御しようとして逆に、
他人に対して冷たい氷のような言葉を
浴びせてしまうことも多かった。
そして、
そんな自分に気づいて、
さらに落ち込んだ。

とにかく、この時期の「K」は、
人に会うことが一番つらかった。

こうした、絶望の真っ黒な連鎖から
立ち上がれるほどの「ココロ」と「カラダ」が
彼には残っていなかった。
そしてただ、呪いたいほどに許せない自分を
ダラダラと実感し続けるだけの毎日を送っていた。

とにかく他人と会うのがつらかったので、
やがて、仕事の量も最小限に減らして、
出来るかぎり他人とのコミュニケーションを
とるまいと勤めた。

そうしていないと、
自分か、他者か、
そのどちらか、あるいは
その両方を傷つけてしまいそうだったから。

でも、その結果が「幸せ」だった訳などなく、
孤立すればするほど自分の心は
傷つき衰えていくのが自分でもわかった。
せめて「ココロ」だけでも健康だったなら
せめて「カラダ」だけでも健康だったなら、
せめて「恋人」だけでも・・・
せめて「友人」だけでも・・・
と、何度も「ないものねだり」をしては
愚かで無力な自分を蔑んだ。

だが、
そんな最低の彼にもわかっていることが
ひとつだけあった。

このままではいけない!

・・・と、ここまで書くとずいぶん勇ましいが、
その方法はちっとも見つからなかった。

低く呪わしげなうなり声を上げながら、
彼はシミだらけの天井を静かに見つめていた。



ところがある日、
彼にひとつのアイデアが浮かんだ。

少なくとも、もがくことだけは辞めよう。
溺れる人間はもがけばもがくほど
さらに溺れていくように、
「もがくこと」は自分を苦しめこそすれ、
なんにも助けてくれない。

そこで、彼は
ひとつの選択肢を選んだ。

それはちっとも素晴らしい選択肢ではなかったが、
少なくとも、それ以前の
もがき苦しむ状態よりはましだった。

彼が選んだ最良とは思えない方法。

彼は結局、
「現実からの逃避」という
手っ取り早いが、
ちっとも未来の見えてこない下策を選んだ。

「現実からの逃避」と言ったって、
たぶん、人の数だけその方法はあるだろうし、
同じ人間の場合でも、
かなりの数の選択肢があるはずだ。

とにかく、今の「K」に必要なのは、
他人とのコミュニケーションによる苦痛を止めることだった。
でも、すべてのコミュニケーションを
切ってしまう訳にもいかず、
それを両立させるために、
手近にあった「ココロ」の麻薬をひとつ、
その手に拾い上げた。

それが、たまたま当時の彼の近くにあった
「インターネット」という小道具だった。

彼は決してその方面の専門家だった訳ではない。
でも、その頃、ちょうど彼は
インターネットを始めたばかりで、
なんとなくその魅力に取りつかれつつあった。

インターネットの世界では
直接人間と面と向って接触することなく、
現実世界とのコミュニケーションが
比較的簡単に出来る。

まさに当時の彼にピッタリの
「現実逃避」の手段と言えた。

この道具を使えば、
現実から逃避しながらでも
なんとか「生」を実感するための
最低限のコミュニケーションがとれるのでは?

「逃げながら繋がる」

「繋がりながら逃げる」

・・・という、
どう考えても魅力的じゃない言葉だったが、
当時の彼には、
かなり魅力的な方法論だった。

その副作用とかについて考えてる暇もなく、
彼はその「オモテヅラの優しい麻薬」に手を出した。

さて、
「インターネットでコミュニケートする」
と言ったところで何をしたらいいのか、
当時の彼にはさっぱりわからなかった。

さきほども書いたように、
彼はインターネットの専門家ではなかったし、
それどころか、コンピュータに関する知識も
人並み以下と言ってよい程度の人間だった。

そんな時、ふと思いついたのが、
その年、つまり1997年の夏に
ちょうど購入したばかりだった
「1台のPDAマシン」のことだった。
人生で初めて、ドン底まで落ち込んだ彼にとって
そのPDAマシンは「裏切らない唯一の友人」のように
優しく彼に接してくれた。

というか、
機械だから傷つけなかっただけなのだが、
なんだかその「人間の臭い」がするマシンは
彼の心の琴線のどこかに触れていた。
普通の機械とは違う「温かさ」が
ほんの少しだけだが感じられた。
もっとも、裏切らないマシンと言いながら、
たまにはハードリセットの憂き目も見た。
でも、そこまで含めて
当時の彼はその、買ったばかりのPDAマシンのことが
好きになりかけていた。

仕事以外の外出をほとんどしなくなっていた彼にとって、
PDAマシンが友達というのも、皮肉な話だが・・・。

それより何より、そのPDAマシンは
まだ日本では定着していなかったものの、
そのマシンとそれを取り囲む世界が、
なんだか楽しくなりそうな雰囲気を持っていた。

これだ!

・・・と彼は思った。

なんの理由もなく、
ほとんど直感だけで、
彼は「これだ!」と思った。

きっと、当時の彼には
そのマシンが「藁」に見えたんだと思う。

そして彼は、
その「藁」にすがってみることにした。

こうして彼はまず、
このマシンを使っていて経験したばかりの
「あるトラブルとその解消法」について、
思いつくままに文章を書いてみた。

そして予想外にスラスラと書けたその文章に、
子供の頃から大好きだったイラストを描き添えて、
インターネットの世界にウェブサイトという形で
アップロードしてみた。

ちょうどその頃、
初心者でも扱える「HTMLエディタ」というソフトが
登場したばかりで、
これを使えば彼にもホームページというものが
簡単に作れたのだ。



実は、「K」は当初、
この最初の記事だけを
アップロードして満足するつもりだった。

いちおう、ウェブサイトらしく
表紙(Top Page)をつけてみたりはしたが、
それをサイトとして、ずっと続けるつもりはまだ
そんなになかった。

ちょっとやってみるかな、
暇つぶしがてら。
つらくてしょうがない毎日を忘れるために。

ところが、
いざアップロードしてみると、
予想以上に気分がよくなった。
それはまるで壁に向ってボールを投げるような
孤独な作業だったが、
なぜか、彼の傷ついた「ココロ」が
ほんの少しだけほぐれたような気がした。

その証拠に、
翌日にはすっかり
その効果が失われてしまうほどの
ささやかなものではあったが、
彼は今回の小さくてデジタルな冒険によって
微かな充足感を味わうことが出来た。
少なくとも効果はあった、ようだ。
そこで彼は、
それ以降も次々と新しい記事を書いては
その開設したばかりのウェブサイトに
アップロードするようになった。

そのうち、
このウェブサイトを読んだ読者から
感想メールが届くようになった。
最初に届いたメールの内容がどんなものだったか、
実はよく覚えていない。
だが、それを読みながら感じた
訳のわからない喜びは
今でも確実に覚えている。
彼は吹雪の中から帰ってきた遭難者が
暖炉の温もりの前でとろけていくように、
呆けた表情で
何度も何度もメーラーの中身を確認していた。

こうして、一時的ではあったが、
彼の「ココロ」は救済への予感を
少しだけ感じていた。

実は、自分にとっては「現実逃避の一手段」でしかなかった
このウェブサイトを読んで、
何んにも知らずに感想のメールをくれる人たちがいる。
そんな彼らの存在が彼の「ココロ」の傷を
ほんの少しづつだが癒してくれた。

しかも、こうした感想メールの数は
その後も記事をアップするたびに
どんどん増えていった。

じわ〜っと彼は、酔いしれ始めていた。

そんなメールのうちのひとつが
このウェブサイトの名称にちなんで、
「K」のことを「機長」と呼んだ。

というのも、彼のウェブサイトの名称が
「マックで機長(英語名:Mac de Pilot)」
と言う名前だったからだ。
このサイト名はもともと、
「Macintoshを母艦とする
PilotPilot(現Palm)ユーザのためのページ」だから、
という程度の理由でつけた。
TopPageには「マック(マクドナルド)」のマークを帽子に
つけた「機長」が敬礼をしていたが、
それは誰かを指し示すものではなく、
単に「マックで機長」というサイト名をビジュアル化したに
過ぎない、ただのデザインだった。
だから、まさか自分が「機長」と呼ばれるなどとは
思ってもみなかったのたが、
いざ、そう呼ばれてみると、なんだかイイ感じだ。
こうして、この日から「K」は、
自分のハンドルネームを「機長」にした。

そう、私だ。



お陰様でこのサイト、
「マックで機長」はとても好評で、
アクセスカウンタはまだついていなかったものの、
送られてくる感想メールの数は
記事をアップロードするごとに、
どんどん増えていった。

しかし、この程度では
ごくごく短時間の「心の平和」しか得られないほど、
当時の機長の「ココロ」は病んでいた。

だが、現実逃避という目的で始めたこの作業が
どんどん楽しくなりつつあったのは事実で、
機長はまるで薬物中毒患者のように
記事をアップし、
このサイトを充実させていった。
そうしている間だけは
「ココロ」の傷が回復しているように感じられたから。

同時に、この頃の機長は、
現実社会での仕事の量をどんどん減らしていた。

たとえ続けていたところで
かつてのような調子で仕事を続けることなど
とても出来る状態じゃなかった。
とにかく今は「逃げて」いないと、
現実社会のコミュニケーションの中で
最悪の結果を生んでしまいそうで、
というより実際に生み始めていたので、
そろそろ囁かれ始めていた
「アイツはもうダメだ」という風評に耐えながらも、
とにかく、仕事量をどんどん減らして、
「現実から逃げる」という、
あまり素敵じゃない作戦を驀進していた。

「現実から逃げる」

・・・なんて最悪な選択だろう。
でも、当時の機長には
そんな贅沢を言っている暇などなかった。

1997年はこうして終わりを告げた。
そして
1998年がやってきた。


テレビや新聞では、
その年の夏に、
史上初めてサッカー日本代表が
ワールドカップに出場する話題で
溢れていた。

そんな頃、
機長は、ある運命的な出会いをすることになる。

彼の名前は、
山田達司さん
そう、まだ日本語化されていなかったPalmPilotで
日本語を使えるためにするためのソフト、
「J-OS」シリーズの作者として有名な彼だ。

「出会い」と言っても直接会ったわけじゃない。
メールの上での付き合いだけだったが、
とにもかくにも、
それは始まった。

当時の山田さんは、
まだまだ、ごく少数のユーザ数しかいなかったPalmPilotを
日本で普及させるための努力を
たった一人で献身的に続けていた。

この頃すでに、M.Hiroseさん
Palmfan(当時はPILOT/PalmPilot Fan)は存在したが、
今ほどのカリスマ性はまだなくて、
単なるPalm系情報サイトのひとつでしかなった。
また、Muchyさん
Muchy's Palmware Review!に至っては、
まだこの世に存在さえしていなかった。
そんな時代だ。

そんな中、山田さんは
同マシンを日本語化するためのソフト
「J-OS」をたった一人で開発し続けながら、
同時に、新しく出来たウェブサイトに応援メッセージを送り、
Palmのためのソフトウェア開発者達へのアドバイスを送り、
日本語化が遅れている企業に激励と叱咤のメッセージを送り、
その他、いろいろな作業を孤独に、
そして黙々と続けていた。

彼がその後、いくつかの著書で書いている通り、
彼のこうした孤独な献身の裏に、
自分の名誉欲や野望達成のためのドロドロした情念があったことを
あえて否定するつもりはない。

だが、彼のその行動は、
そうしたすべてのドロドロした部分を忘れさせてくれるほどに
情熱的であり、
また博愛的な包容力に溢れていた。

機長は彼が眩しかった。

正直、羨ましかった。



ここまで来てようやく、
ボロボロ状態のまま
ウェブサイトという「心の麻薬」に
漬りかけていた機長にも、
生きるための健全なヒントのようなものが見えてきた。

それは「理屈」というよりも「天の声」、
さらに言えば、
単なる「思いつき」に近いものだったが、
それこそ「どんな藁でも掴みたい」状況にいた当時の機長は、
どこからともなく聞こえてきたその声に
すがるように、したがった。

「山田さんの仕事を手伝おう」

ところが、
「彼を手伝う」と言ったところで、
いったい何をすればいいのか
何から手を付ければいいのかさえ
最初はわからなった。

そこで、
まずは黙って「彼のマネ」を始めてみた。
彼が実際に自分にしてくれたように
この世界の住人達のために献身的に尽くそう、と。

そうすることで、
ずっと苦しみ続けてきた
「ぬかるみの世界」から
少しでも這い上がれるような気がした。

いや、這い上がれなくてもいい。
少なくともそうすることで、
当時ボロボロだった機長の「ココロ」が
さらに救われるような気がした。
たとえ一瞬でも
傷ついた「ココロ」が救われるためならば、
「現実逃避」だろうが「麻薬」だろうが、
「悪魔との契約」だろうが
何だって引き受ける!
それが当時の機長の偽らざる本音だった。

自分のウェブサイトから「100」の優しさを振りまけば
わずか「1」でも優しさのリアクションが帰ってくる。
確かに、
その可能性は1/100だったかもしれないが、
砂漠のように乾いていた機長の「ココロ」には
ダムから排出された鉄砲水のように
その「1」がしみ込んできた。
それが快感だった。
1/100の快感。
そこに機長は賭けてみた。

その頃、「PalmPilot」というPDAマシンの名称は、
商標問題がこじれたために
「Palm」という名称に変った。
そしてちょうど、三代目のマシン「Palm III」が
リリースされた頃。

1998年春。

「パイロット航空」というサイト名に変えたばかりだったが、
あらためて「パーム航空」に変更した。



そうこうしているうちに
機長はますます
このPalmの世界にハマったいた。

と同時に、
この現実逃避の一手段が、
自分の人生を「敗北の結末」へと導かないように、
注意深く見守る必要を感じ始めていた。

つまり、どんどん楽しくなりながらも、
これが本当に自分を素晴らしい未来に
連れていってくれるのか?
「逃げ」続けていて、本当にいいのか?
必死に考え始めていた。

現状は楽しい。
でも、このままでいいのか?


そう考え始めていた。

そして考え抜いた末に出した答えはこうだ。

まずは、Palmが好きだからPalmについて書く、

で、これと同等か、それ以上の熱心さで、
機長はPalmコミュニティという世界に
優しさを振りまくことで
自分に返ってくる人々の優しさを肌で感じよう!
という作戦をこれからも継続することにした。
これまで以上の熱心さで。

永遠にこれを続けることが出来るのかどうか?
・・・についてはあえて保留した。
そんな遠い未来のことよりも、
目の前のリハビリテーションの成果に注目して、
本当の解答は「未来への先送り課題」にすることにした。

そんなことを考えながら、
機長は「顔さえ見えない読者」たちに向けて
記事を書き続けた。

この挑戦は同時に、
インターネットという
まだ人類史上に生まれたばかりの
真新しいメディアとの
戦いでもあった。

インターネットは
メディアの送り手と受け手を
同等のレベルに置いてくれる
という意味で画期的なメディアだったが、
同時に「平等である」というその長所が時には
「残酷な刃物」にも変わるという
まるで原子力のような二面性を持ったメディアだ。

まだ回復への扉をノックし始めたばかりの機長も
このインターネットという世界で、
「耐えられないようなトラブル」をいくつか経験した。
でも、それらをひとつひとつ
春先の芽生えのようなスローなテンポで
解決していくこともまた
自分にとってのリハビリテーションだ。
そんな気がして、頑張ってみることにした。

当時の、そして今の
機長のこの文体を観るかぎり、
そこに「傷ついたココロ」を
見つけることは難しいかもしれない。

だが、とくに当時の機長は必死だった。
上半身で、ユーモアや優しさを振りまきながら、
水面下では激しくもがいていた。
現実世界での復活を目指して・・・。

「宗教」とかその種のものに頼らず、
自分一人の手と足で
自らの「ココロ」を回復するという
「壮大な実験室」として、
機長は記事を書き、
「パーム航空」という歴史を
積み上げるようになっていた。
それはもはや、
単なる「現実逃避」の場所ではなかった。

そこから先の物語は
皆さんも知っている
「パーム航空」の物語に
酷似している。




1998年に入って、

山田さんを中心としたPalmの世界は
どんどん育っていた。

それにつれて、
「パーム航空」の役割も大きくなっていった。
「機長」というキャラクターも
どんどん成長していった。

自分の心がつらい時ほど、
Palmの世界の中から
「ピンチ状況にいる人間」を探し出して、
そんな彼や彼女たちのために出来ることは何か?を考え、
そのために自分が出来る方法を
とにかく実行してみた。

そんな時の機長は、
精一杯の用心深さで
彼や彼女たちと接した。
それは彼や彼女のためではなく、
もっぱら自分自身のためだった。

「傷の癒えていない自分」の言葉は
しばしば人を傷つけやすくなっているはずで、
そんな風に慎重に言葉を選ぶことで、
「自分の中で一度は崩れてしまったアイデンティティ」を
再び取り戻そうとしていた。
時にはその結果、
さらに傷ついてしまうこともあったが、
でも、その傷は確実に
自分の「心の中の実績」になった。

とにかく、機長は
成長していくPalmコミュニティを
楽しみながら
同時に自分のためのリハビリを続けていた。

Palmコミュニティと
一緒に成長する。


不遜だが、当時の機長はそんな気分で更新を続けていた。



そんな中で
「一筆啓上。」
なんて運動も始めた。

Palmのソフトウェアが気に入ったら
その作者にメールを送ろう!

・・・というシンプルな運動だったが、
これは
機長が「パーム航空」を続けながら感じた、
メールによるコミュニケーションの楽しさを
みんなで共有したかったから始めた
という、かなり安易な企画だった。

つまり、自分が一通の感想メールを貰って
どんなに救われたか?

そんな気持ちを、
まずはプログラマの皆さんにも味わって貰いたかった。

しかも同時に、
自分がプログラマさんにメールを書き、
その返事を受け取った時に感じた感動を
読者の人たちにも味わって欲しかった。

(だからといって、すべてのメールに返事があると
期待してはいけない。
その過剰な期待は結局、受け手にプレッシャーを与え、
平和な関係構築を邪魔するだけだから)

こうした「一筆啓上。」運動に続いて、
この頃から、
「パーム航空」の記事の中で
「公募もの」
を増やしていった。

「公募もの」とはつまり、
読者からもらったメールをもとにした
さまざまな企画のことを差す。
「○○コンテスト」だとか、
「○○についての意見募集」だとか・・・。

これらは
自分の作業を孤独な「現実逃避の一手段」から
さらにステップアップさせるために
「どうしても必要な過程」だと思っちいたし、
この結果起きるすべてのトラブルにも
自分は耐えていく必要があると思ったからこそ、
意図的に始めた。

最初は、
ごくごく一部のリアクションだけを頼りに始めた、
こうした「公募もの」企画も、
回を重ねるごとにその輪は広がっていった。

その分だけ機長の負担(具体的な作業や精神的な負担)も増えたが、
それにも増して「公募もの」は楽しかった!

「公募もの」をやっている時は、
初めてインターネットに記事を発した時の
「見えない読者に向けての発信」の
数百倍の温かさが自分に伝わってきた。

そして実際、
こちらの楽しさが読者にも伝わったのか、
「公募」系の企画は
回を重ねるごとに
どんどんその応募数が増えていった。

こうして集まったメールの数やアクセス数が
機長の「ココロ」のリハビリをどんどん助けてくれた。

だが、実はそんなものよりも、
例えば、
メールの隅っこに書き添えられた
「ちょっとしたコメントの温かさ」が
当時の機長を何度も助けてくれたように思う。

「温かさ」という報酬。

それは、
アクセス数や応募数と言った、
「数字」とは比べものにならないほど
素敵なものだ。

わずか数キロバイトのメールに添付された
量的には計りきれない「温かさ」。

たぶん、送り手にはそんな意識など
なかったのかもしれないが、
送り手の「肌の温もり」のひとつひとつが
その頃の機長の「ココロ」に
とてつもなく優しく響いてきた。

そして
こうした「パーム航空」の歴史を積み重ねながら、
薄皮をはぐように、
機長の「ココロ」のほころびも
解けていくような気がした。
そして、機長の「ココロ」が救われ始めるにつれ、
機長の「カラダ」もまた
復活への気配を漂わせ始めていた。

本当に嬉しかった。



と、同時に、機長にも欲が出てきた。

それは、
人間「K」としての欲と
パーム航空「機長」としての欲が
偶然一致していた。

つまり、メールを越えた
更なるコミュニケーションのステップ。

会ってみたい!

・・・という願望がどんどん膨らんでいったのだ。

ようやくここに至った。

ようやくここまで帰ってきた、
・・・と言ってもいいかもしれない。

驚くべきことにそれまでの機長には
Palmの世界において
「会う」という発想はなかった。
というのも、
それまでの機長はまだ、
健全な「ココロ」を取り戻していなかったから。

でも、ようやくその心が芽生え始めていた。

ちょうど、
Palmコミュニティの時代背景にも
それは一致していた。

1998年の夏。

PalmfanFPalmの共同主催で
「Palmware & Goodz Contest」が開催された。
これは日本のPalmコミュニティが初めて体験した
本格的なお祭りだった。
(ただし、まだウェブ上の!)

それと時を同じくして、
同年夏には日本で初めてのユーザグループ
「PUGO」が大阪に誕生した。
(当時の機長は、ユーザグループという言葉の
意味さえまだ知らなかったが・・・)


さらに同10月には名古屋で
中部地区をエリアとするユーザグループ
「CPUG」が誕生した。

でもまだ機長には
ピンと来ていなかったような気がする。

決定的だったのは同年10月28日の出来事だった。
この日は、
前述の「Palmware & Goodz Contest」の審査員として
機長は、初めてPalm世界の人間達と出会った記念すべき日だ。
M.Hiroseさんみのたんさん(FPalm)、
川上さん(日経BP社)、
というわずか3人だったが、
彼らとの出会いが決定的だった。
とにかく楽しかったのだ。

そして何よりも、
Palm IIIでそれまで一度も使ったことのない
「赤外線名刺交換」という機能を
生まれて初めて使ってみて、
ひたすら感動していた。

このマシンは、
もともとこの感動をユーザに味あわせるためだけに
あったのではないか?

・・・と勘違いするほどに、
それは魅力的な出来事だった。
実はPalmは、ただのPDAマシンなんかじゃなく、
「人と人を繋ぐためのマシンなんだ」と、
この時初めて実感した。

そんな感動のままに
機長はその頃、
なんとなく温めていた「あるプラン」の実現へと動き出した。



それが「Palm/Pilot日本占領計画(当時)」という企画だった。

これは、当時まだ大阪と名古屋にしかなかった
Palmのユーザグループを日本中に作ろう!という運動であり、
機長はそのためにまず、
日本列島の白地図を書いて、
大阪と名古屋だけに色を塗った。

当時の機長の「ユーザグループ」への認識は
「ユーザが集まる奴のことでしょ?」という程度のものだったが、
そのうち、
ユーザグループのメンバーが集まることを
「オフ会」と呼ぶことも覚えた。

そうこうするうちに
機長の書いた白地図がどんどん埋まっていった。
つまり、
日本中でユーザグループが次々と誕生し、
それらが続々と全国各地でオフ会を
開き始めたのだ。

これは機長の呼びかけのせいもあったかもしれないが、
きっと、当時のPalmコミュニティの望んでいたものと
機長の思いが
たまたま一致していたのだろう。

まさに燎原の炎のように
「ユーザグループを作ってオフ会で会おう!」という
運動は日本全国に広がっていった。

しかも、機長の気持ちとしては、
これまでのPC世界で標準だった
「マニアックなだけのユーザグループ」とは一線を画した
オトナの社交クラブ的なユーザグループ、
そしてそんなユーザグループによる
Palmを愛する人間なら誰もが楽しく参加できるような
オフ会が出来たら最高だろうな、と思っていた。
これらはもともと機長個人の勝手な思い込みにすぎなかったが、
こうした機長の思い込みに賛同してくれる
ユーザグループも続々と誕生してくれるようになった。

なんだか、とっても楽しかった。
日本にユーザグループがひとつ出来て、
国内でオフ会がひとつ開かれるたびに、
機長はその喜びに打ち震えていた。

それは運動の提唱者としての功名心とかじゃなく、
(それもあったのかもしれないが・・・)
単純にわがことのように
全国に広がるPalmの輪を楽しんでいた。
喜んでいた。

だが!

こうして広がっていった喜びは、
機長にとって、
単純な喜びとだけは言い切れなかった。

つまり、
機長が「会いたい!」と、
ようやく思い始めたことは
ある意味、機長の「ココロ」の回復速度が
急上昇している証拠でもあった。

そして実際、
この時期の機長の「ココロ」の回復具合は
復活不可能だと思っていた
機長の「カラダ」の異常にも、
かなり好影響を与え始めていた。
そのスピードはまだまだゆるやかだったが、
でも確実に、
機長の「ココロ」と「カラダ」が
復活への烽火を上げ始めていることを示していた。

「現実逃避」、
続いて「リハビリ」のために
頑張ってきた「パーム航空」の役割が
そろそろ終わろうとしている。

ユーザグループ運動の発案とその成功という
新しい「出会い」の始まりは、
同時に、機長にとっては
「別れ」の始まりでもあった。




事実、この時期に機長は
その時点までにすっかり減らしていた本職の仕事量も
ほんの少しづつだったが、
少しづつ様子を見るように増やし始めていた。

「全国にユーザグループを!」と叫びながら、
同時に機長は
「現実社会」への復活プログラムについて
考え始めていた。

まだ日程を区切るほどではなかったが、
「いつまでもパーム航空を続けられる訳ではない!」
・・・という思いが
次第次第に強くなっていった。

理由は簡単だ。

当時も、そして今も、
「パーム航空」やPalmコミュニティのことを
愛する気持ちは変らないが、
突然の「不幸の満漢全席」のために
放置してきたままの「元の世界」には
まだまだやり残してきた「人生の夢」が残っていた。

どんなにPalmコミュニティのことが好きであっても、
「人生の夢」には勝てない。
確かにPalmコミュニティのことは機長の中で
「人生で二番目の夢」ぐらいには育っていたが・・・。

この頃からパーム航空は、
「Palmコミュニティの更なる発展」と
「Palmコミュニティからの見事な撤退」という
相反する二つの命題の間で揺れ動くことになる。

とにかくこれは、
つらい葛藤だった。

「機長」は機長の中ですでに
とても大きな存在になっていたし、
それは「パーム航空」についても言えたし、
「Palmコミュニティ」についても同じことが言えた。

さらには、
ここまで自分を復活させてくれた
「Palmコミュニティ」を、
つまり自分を復活させてくれた「大恩人」であるその世界を、
どんな理由があるにしろ、
簡単に捨て去ることなど出来なかった。

さらに言うなら、
「Palmコミュニティ」がこの頃ちょうど、
「ある過渡期」にあったことも見逃せない。
そんな流動的な時期にある「Palmコミュニティ」を
いきなり見捨てることなど、
機長にはとても出来なかった。

その象徴的な出来事が、
98年秋頃からの「時刻表」部分の爆発的な増大だった。
これは、当時も今も変らぬ、
Palmコミュニティのナンバー1サイト
「Palmfan」M.Hiroseさんが病気で長期入院してしまい、
その更新が止まってしまったために始めた措置だった。

この頃はちょうど、
翌年に控えたWorkPad日本語版のリリースに備え、
国内のPalm関連情報が途絶えがちで、
それだけに機長も必死だった。

それまでPalmfanのおかげで当然のように享受できていた
「Palmに関するさまざまな情報」が止まってしまって、
Palmの世界が魅力的に見えなくなってしまうのが悔しくて、
機長は狂ったように
それまではニュースなどほとんど書いたことがなかった
「時刻表」欄にPalmに関するニュースを
これでもかって言うほどに書きなぐった。
実際には、
そろそろ本職の仕事の方もかなりその量を増やしていたので、
更新作業はとても大変になっていたのだが、
それとは裏腹に、
「Palmコミュニティからの撤退」を考えれば考えるほど、
「Palmコミュニティ」の炎を消したくないという、
矛盾した気持ちを抱きしめたまま、
機長は懸命にニュースを書きなぐっていた。

こうして1998年は終わった。
そして、
運命の1999年がやってきた。




そう、7の月には「アンゴルモアの大ちゃん」が
やってくると言われたあの1999年だ。

結局、「大ちゃん」はやってこなかったが、
1999年はPalmにとっても、
機長にとっても激動の一年になった

同年1月、
すでに国内のユーザグループ数は
8つを数えていたが、
この頃機長は始めて「オフ会」なるものに出席した。

とっても楽しかった。
やっぱり機長の予想は間違っていなかった。
・・・と初めて実感できた。

その後も続々と全国にユーザグループが誕生し、
その多くでオフ会が開かれた。
同年中に誕生した国内ユーザグループの総数は
20を遥かに越えていた。

そして運命の2月がやってきた。

全国規模では初めてのユーザイベントである
「幕張計画」が東京で開催された。
実は、機長の心の中にも
いつか全国規模のユーザイベントを開いて
それを「パーム航空」のフィナーレにしたいという
思いがあったのだが、
同時期に同じようなことを考えていた
大阪PUGO代表の瓜生さんの力で
それは現実のものとなった。

さらにこの月の後半には、
いよいよWorkPad日本語版がリリースされた。
その会場ではPalm Comuputing社から
機長は表彰までされてしまった。
「ここまで表彰されるとさすがに辞めづらいよな〜」
という思いもあったが、
とにもかくにも、やっぱり嬉しかった。
「ここまでやってきて本当に良かった〜」と
つくづく思った。

この時期はある意味、
「パーム航空」の第1次絶頂期と言えた。

でも、ユーザグループのこと、幕張計画のこと、
そしてPalm Computing社からの表彰のことは、
「達成の充足感」と同時に「別離への決意」を生み、
「別離への決意」は同時に「辞めていく罪悪感」を生んだ。

正直、複雑な気持ちだった。

そして、1999年春。

次第に機長は、
自分に「人生のタイムリミット」が
確実に迫っていることを感じていた。

つまり、
パーム航空の「機長」として、
サイトやメールで、そしてオフ会で・・・と
活躍すればするほどに
機長の「ココロ」と「カラダ」は
復活していった。

つまり、頑張れば頑張るほど、
現実世界への「復活の時」、
つまりPalmコミュニティへの「別れの時」が近づいていた。



同時にこの頃は、
それまでも続けていた「最後の模索」を
改めて真剣に考えていた時期でもあった。

「最後の模索」とはつまり、
「パーム航空」を趣味ではなく、
本職と同列のビジネスとして成立させる方法はないだろうか?
という、かなり気が遠くなるような計画だった。
これなら「人生の夢」との共存も可能かもしれない。

実際、日本語版の登場で
Palmコミュニティの規模は爆発的に拡大しつつあったし、
ビジネスとして成立させる方法が見つかるかもしれない。

でも、所詮はこの世界には素人、
そんな凄い錬金術が簡単に見つかるはずもなく、
機長の心の中のカウントダウンの数字は
どんどん進んでいっていた。

1999年7の月に向って!

でも、それは
「アンゴルモアの大ちゃん」のことなんかじゃなかった。

では、何か?

実は、ちょうどその頃、パーム航空が
「100万アクセス」を迎えようとしていたのだ。

これはひとつの「区切り」になる。
つまり、なかなか別れることが出来ない
「Palmコミュニティ」への別れのタイミングとして、
パーム航空への100万人目のアクセスを
設定していた。

よし、これを期に
「パーム航空」の更新を止めよう!

そこでまず、4月1日から「時刻表」のスタイルを変えた。
M.Hiroseさんが倒れて以来続けてきた
「ニュースは全部紹介しまっせ!」スタイルから
1日=1テーマのスタイルに変更した。
途中からPalm界のニュース量がどんどん増えてきて
多少ルールを破ることもあったが、
それでも一日の更新量が増えることだけは
出来るだけしないように勤めた。
これが「別れ」のための第1ステップだった。

そして、とうとう待ちかねた
第二ステップがやってきた。

1999年7月6日午前1時30分頃。

「パーム航空」は離陸以来およそ1年4ヶ月で
100万アクセスを迎えた。

そして、これと同時に
同年7月14日に「休航宣言」を発表し、
突然、パーム航空は一切の更新を停止した。



本職の仕事の方もすでに
ほぼ「フル稼働状態」まで戻っていたし、
ここが潮時だと思っていた。

さらには、
この直前までにPalm界を去るに当たって、
最低限引いておかなければならない
いくつかのレールも引いておいた、つもりだった。

つまり、Palm界のいくつかのジャンルにおいて、
これまでは機長がその役割を果たしてきたが、
もしも機長が消えてもその後も何とかなるだろう、
という「見えないレール」を
この時期までに何本か敷いておいた、
つもりだった。

そんな準備を密かにした上での
「決意の休航」だった。

だが、この時の「休航」に関しては、
やはり「休」という文字の意味と、
その直前までの「活発な活動」から
「たぶん一時的なもの」だろうと
多くの読者に思われていたようだ。
たぶん「秋」頃には戻ってくるのでは?と。

ただし、機長としては
そんな幅広い解釈が生まれることも
多少は意識していた。
「パーム航空」休航のニュースに揺れる
Palmコミュニティの様子を冷静に見つめながら、
よりよい「完全なる撤退」に向けての方法を探る。
そのための「休航」でもあったのだ。

当時の計画では。
数ヶ月の「休航」期間中に
Palmコミュニティの様子を分析して、
その結果を踏まえた上で、
やがて「完全撤退」をするつもりだった。

ところが!

その計画もまとまらない
同年7月28日、
「休航宣言」からわずか2週間で、
機長の決断を
いとも簡単に
変更しなければならないような
大事件が起こった。



つまり、
「秋のPC World EXPO'99 TOKYOに
史上初めてPalm Computing社の社長が来日する」
という
ニュースである。

なぜこのニュースが
機長の決断を急遽変更させたのか?

これを理解するためには、
もう少し説明が必要だ。

さかのぼること数カ月前、
機長はスリーコム関係者の一人と雑談していた。
そして、彼の口から、
「秋のPC EXPOに
Palm Computing社の大物がやってくるので
それに合わせたイベントを考えていますが、
ユーザサイドでも何か出来ますか?」

という内密の打診を貰っていた。

機長はすかさず
「あるプラン」を語った。

それは、
「ユーザグループ結成運動の集大成として
99年夏に開催を考えていた
全国レベルのイベント」
のことだ。
このイベントをPC EXPOの会場で
同時に開くことは出来ないか?

「素晴らしい!」

機長の提案はすぐさま了承された。

これで夢がかなう。
「パーム航空最後の仕事」にふさわしい
最高のイベントだ!

実は機長は、
「休航」計画と平行して、
たとえ「パーム航空」がどうなろうとも
「ユーザグループの全国的イベント」が開催できるための
密かな行動も続けていた。

その作業は、
2月の「幕張計画」開催と同時に始めていた。

非常にバイタリティ溢れる行動力を持つ
m-plug代表kentaroさん
「全国レベルのユーザグループイベント」の
総責任者就任を打診しており、
その内諾をすでに得ていたのだ。

だから、
「いつでもスタートは出来る!」
という状態にあったこの計画だったが、
もともとオフレコだった
「秋のPC EXPOにPalm Computing社の大物がやってくる」という
情報の公開タイミングがなかなかやってこないので、
機長は計画の「GOサイン」を
出すことに躊躇していた。

そうこうするうちに
機長の仕事はますます忙しくなってきて、
計画のことよりも、
「休航」のことに専念し始めていた7月2日、
「秋のPC EXPOにやってくるはずのPalm Computing社の大物」
突然、退任してしまった!
元Palm Computing社の女社長Robin Abramsさんが
いきなり同社を辞めてしまったのだ。

2月に就任して以来わずか5ヶ月での退任は驚きだったが、
同時に機長は、長年の夢だった計画すらも
ほとんど諦めることになった。

そう、
これで、「全国レベルのユーザグループイベント」は
「開くタイミング」を失った、と。

だから、機長は
このイベントは次世代への課題として残したまま、
7月14日にパーム航空を「休航」したのだった。

「全国レベルのユーザグループイベント」は
きっとkentaroさんたちが中心になって
いつの日か開いてくれるだろう。
でも、今の機長には無理だし、
ベストなタイミングを失ってしまった。

ところが、
「パーム航空」が完全休航していた
7月28日になって、
突然事態は急展開した。
「秋のPC EXPOには、Palm Computing社の
新社長Alan Kesslerさんがやってくる!」

・・・ことになったのだ。

スリーコムジャパン側に
「全国レベルのユーザグループイベント」の開催について
改めて打診したところ、
喜んで協力するとのこと。

ここに至って、
もはや「休航」とかそんなことを
言ってる場合じゃなくなってしまった。

PC EXPO開催日までは
残すところ、
わずか1ヶ月ほどしか残っていない。

こんな短すぎる期間でイベントを成立させることは
至難の業だが、いろんな意味で、
つまり、
「Palmコミュニティでやり残した最後の夢」として、
「パーム航空のファイナルイベント」として
なんとかやり遂げたい!

そう思って、
同年7月28日に、
「休航」したばかりパーム航空を
二週間ぶりに再び復活させた

完全復活と呼ぶにはほど遠い状態だったが、
「PUXPO 99」と名付けられた
その「全国レベルのユーザグループイベント」を
開くための協力は惜しまないという体制で
同イベントの実行委員会(代表=kentaroさん)を
支援するべく、
記事を書きアップロードした。



こうして、
「パーム航空」は予想もしなかった形で復活した。

さすがに、
この頃にはすでに、
本職の仕事の方が爆裂的な忙しさだったため、
直接実行委員会の仕事をお手伝いすることは
出来なかったが、
このイベントがいきなり立ち上がったために
発生しがちだった企業間の利害調整など、
裏方的な作業を中心に
出来るかぎりの協力はさせてもらった。

この時期、こうした精神状態だったために
かなりエキサイトした機長に
出会った(とくに企業関係者!)の皆さん、申し訳ない。
機長は以上のような理由で必死だったのだ。

さて、同実行委員会を中心とする
Palmコミュニティの総合力は凄まじいものがあった。
そのおかげで、
ほぼ1ヶ月後の9月12日、
「全国レベルのユーザグループイベント」である
「PUXPO 99」は見事に結実した。

まさに「伝説」と呼ぶべき、
素晴らしいイベントだった。

「パーム航空」としても
二度目の絶頂を味わうことが出来た。

これで機長としては
もはや思い残すことはまったくなくなった。

●100万アクセスの達成。

●全国レベルのユーザグループイベントの開催。

Palmの未来がこれほど輝かしい時期に
Palmコミュニティを去ることは悔しくもあったが、
本職とのバランスを考えた時、
そろそろ潮時も限界に来ていた。

まずは「PUXPO 99」の後フォロー記事を書くことに専念して、
さらには来年(2000年)度の「幕張計画」への道筋も作った。

そして、
あとは未整理ページの修正や
ユーザグループ活動支援ページの今後をどうするか?など
「完全撤退のための宿題」は
残りわずかとなっていてた同年10月31日、
予想もしていなかったニュースが
再び飛び込んできた。

「パーム航空」が
「Yahoo! JAPAN & Yahoo! Internet Guide 合同企画 
あなたが決める! 1999年のベスト・ホームページ
Web of the Year 1999」

「コンピュータ部門」にノミネートされてしまったのだ。

この予想だにしなかったニュースには
さすがに驚いた!

すでに数カ月前から
「辞める準備」ばかりしてきたサイトが
こんな晴れがましい賞にノミネートされるなんて?!

嬉しい反面、とても困惑していた。

Palmコミュニティの代表として選ばれてしまった以上、
ノミネートされながら
サイトを終了するわけにはいかなくなったし、
恥ずかしい投票結果に終わるのも
Palmコミュニティに対して申し訳ない。

投票締切日は11月18日、
発表はクリスマスイブ、つまり12月24日だという。

機長は再び、当初の計画を変更して
「パーム航空」の更なる続行を決意した。

しかも、投票期間だけは
他ジャンルからの注目も集まるだろうし、
出来るかぎりの更新を続けるよう
努力した。

またしても機長は
「辞める準備」を続けながら
「一生懸命頑張る」という
二律背反のサイト運営を続けることになった

そして、11月18日には無事投票終了。

非常に多くの人から「投票したよ!」の
メッセージを貰い、
また多くのPalm系サイトが
「パーム航空」への投票を呼びかけてくれた。
涙が出るほど嬉しかった。

と同時に
彼らの意に反して
サイトを閉じる準備を続けていることへの
やましさに再び胸が痛んだ。

このままもし、
夢のような話だが、
「部門賞トップ!」なんかになったら、
休止計画は撤回して、
逆に本気でサイトに打ち込もうかな?とか、
それぐらいじゃないと、
投票してくれた皆さんに申し訳ないよな、
などと思いつつ、
投票結果の発表を待った。

これが最後のイベントになった。

そして運命の12月24日、
クリスマスイブ。

結果は、ベスト10にも入れなかったが、
あれだけの凄い大人気マンモスサイトの中で戦えて、
しかも、部門賞の「選者後記」では
「Palm界の躍進」が触れられていた。
もう、思い残すことはない。

ここからは事務的処理を中心に
ひそかに最後の作業を進めた。

これまでの感謝の意味も込めた
「Palm of the Year 1999」の選定と表彰記事、
そして、これまで自分でも読みにくくてしかたないと思いつつ、
修正するのが面倒くさくてほったらかしだった
時刻表の過去記事(とくにNo.1〜24)のフォーマット替え
・・・などの作業を黙々と続けた。

そして、
パーム航空が無期限休航になってから
初めて来るだろう
ビギナーユーザのために、
パーム航空名物の「定期便」をまとめた記事を
用意しておきたくなったので、
最後の定期便をPAL148〜PAL149を書きためた。

あと、
これまでパーム航空が一手に担当してきた
全国「ユーザグループ」の
今後の「取りまとめ」についての調整作業も
密かに進めて、いちおうのゴールを見た。
これについては、
そのうち発表されるだろう。

これで、すべての準備は整った。

まずは
ホットドッグ計画(仮)第1弾として
「定期便ベスト10」と「定期便でたどる2年と2ヶ月」という
二つの記事をアップロードした。
そして!

そして、今日!

あまりに突然だが、

パーム航空は
無期限休航に入る。




残るは、
そんな無期限休航に入った
パーム航空と機長は
どうなるのか?

・・・という話だ。

NEXT for YOU







じゃ。


2000年2月7日



【お詫び】
以上長々と文章を書いたが、これには訳がある。
いろいろと諸事情のために書けないことが多すぎて、
そのために、かなり遠回しで、
つかみ所のない文章になってしまった。

ま、勘弁して欲しい。

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