〜神様と呼ばれる男に捧ぐ〜
Pilotたちの伝説
どこまでも続く平原の向こうで微かに砂塵が上がった。1939年2月、ノースキャロライナ州の田舎町に今年も乾いた冬がやってきた。ラジオからは、いつものように深刻そうなアナウンサーの声が極東の軍事政権が中国大陸で侵略を繰り返しているというニュースを伝えている。もうすぐ太平洋で戦争が始まるかもしれない。そんな空気が、この南部の平和な田舎町にまで伝わってきていた。ラジオニュースがグレン・ミラー楽団のサンフランシスコ海兵隊基地慰問のニュースを伝え始めた頃、オービルはキッチンまでよろよろと歩いていくと、フリーザーから取りだしたバドワイザーの栓を抜いて、黄金色の液体を瓶から直接乾ききった喉へと流し込んだ。そして激しくむせた。年寄りの飲み方じゃないな。オービルは無言のまま自嘲気味に微笑んだ。リビングへと向かう廊下で、孫のラリーがスピットファイヤー戦闘機のオモチャを振り回しながらオービルの前を走りすぎる。時代の空気がそうさせるのか、近頃の子供たちの多くが戦闘機乗りになることを夢見ていた。そして彼ら子供たちの口からは、憧れの戦闘機乗りたちの名前が輝かしい勲章のように語られていた。そんな、戦闘機乗りたちの名前を耳にするたび、オービルは必ず何か言おうとしてはその言葉を飲み込んだ。誰もいないリビングを抜けて書斎に戻ったオービルは、桜材のデスクの片隅に置いてある古びた写真立てを見つめる。その写真の中では、二人の男達が肩を組んで笑っている。そしてその写真の片隅には、今は亡き兄ウィルバーの少しほろ酔い気味の走り書きでこう書いてあった。「1903年12月17日、キティホーク岬にて、俺たちはやった!」・・・そう、今から36年前、オービルは、世界史上いまだ誰も味わったことのない体験をした。わずか17秒間の忘れられない思い出。地上数メートルの上空で無我夢中で操縦桿を握りしめていたオービルの視界に、普段の温厚な性格からは信じられないほどに、狂喜乱舞して手を振る兄ウィルバーの姿が見えた。そしてあの後に二人で飲んだのも、やっぱりバドワイザー社のビールだった。瓶が割れるほどぶつけてから飲んだあのビールの味はいまだに忘れることができない。世界中の人間が自分たちの名前を忘れることがあっても、あの日の思い出だけは死ぬまで忘れない。「兄貴の分までな・・・」そう呟いてから古ぼけた写真立てを、オービルは再び見つめた。モノクロ映像の中で微笑む二人の笑顔。
20世紀初頭に生まれたばかりの、まったく新しい乗り物「エアプレーン」は、2つの大きな世界大戦を挟んだ20世紀前半に、目覚ましい勢いで進歩を遂げた。そして、次々と新しい記録が生まれ、新しい機種が生まれるたびに、世界はその栄光に酔いしれ、新しい時代の英雄たちの名前が世の中を賑わした。そのため、しばらくの間、オービルとウィルバー、二人の名前は忘れかけられそうになることもあった。だが、20世紀がまもなく終わり、21世紀が始まろうとしている今、そんな中から人々の記憶に残っている名前といえば、ウィルバーとオービル、俗に言う「ライト兄弟」の名前だけだ。17秒間の伝説とともに。
by 機長@パーム航空
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